いよいよ、戦後最大の司法改革である、裁判員制度がはじまりました。
今日以降に起訴された、重大な犯罪について(法廷合議事件)その審理に民間人6名が参加する。
これは、アメリカの陪審員制度のように評議において有罪無罪を決め、量刑は裁判官がするというものではなく、ドイツの参審制度のように、3人の裁判官と民間人(名誉裁判官という)2名による、合議により量刑まで評議するもので、日本はそれに近い制度である。
民主主義の社会なのだから、人を裁くのも当然だという意見がある。また、死刑判決に加担したくない。等様々な意見があるが、私は国民の司法に対する参政権の行使を無視すべきでないと考えている。法廷の無機質な空間に身を置いた瞬間から、個人的な立場より、国民に選ばれた一人の裁判員として、公人の役割を果たすべきだと思っている。
しかし私は、入場料のいらない、裁判の傍聴を10数年してきたが、窓もない息詰まる、硬い空気のなかを長時間座ることはできない。大阪地方裁判所には、この裁判員裁判の法廷が、3つあるが、どれもおなじである。
↓大阪地方裁判所 刑事部法廷の通路
2年前、この裁判員制度について、裁判所主催の説明会があったので参加した。現役裁判官による説明が1時間ほどあり、終了後、法廷内の見学となった。私は裁判官に無理を言って、法衣(裁判官が着ている黒のシルク)を貸してもらい、裁判官席の中央の裁判長席に座り、架空の判決文を読み上げた。「主文 被告人を死刑に処す」眼の前にある証言台にいるであろう被告人に対してである。いつもなら、犯した行為から当然だ、とテレビを見ながら、そう思うのだが、いざ、その場に立つと、やはり躊躇があった。(死刑は刑務所ではなく、拘置所で執行される。死刑囚は2日前執行は通知され、当日まさに手足を縛られ、首にロープを巻かれ、やがて底が抜けて、落下。窒息死ではなく、頚椎骨折による即死となる)そうした光景が浮かんでしまうのである。
おそらく、人は死んだ人より生きた人を残そうとするのかもしれない。多くの死刑判決文にも、更生の余地がないのであれば、もはや死刑を回避すべき理由はないとしている。
この作業を職業にしていない私たちにとって、司法への新たなアプローチが見えてくるに違いない。さて、理想と現実の間を揺れながら、新たな試みが、スタートする。
唯一国民の参加がなかった司法に民意が直接入り込む。このこと自体はいいことだと思いますが若干入りすぎのような感じがしますね。。。最初は“ぜひ選ばれたい”と思っていたこの制度ですが知れば知るほど疑問も大きくなってきました。だって国会に参加して法案の検討に参加するようなもんでしょ?これじゃぁ責任を国民に分散しようとしているという主旨もあるんじゃないかと勘ぐられてもしょうがないかもしれませんよね。僕としては少し興味はあるもののこのこの制度には少しキナ臭さを感じてきました・・・そもそも死刑という刑自体に完全な合理性を見出せないですしね・・・今度ゆっくり語り合いましょう。。。
昨日、戦後何人目であろうか。罪無き人が牢獄から、解放された。突然、生活を奪われ両親の死に目にも立ち会えず、男ばかりの自由のない空間で、労務に供しながら、それでも無実を叫んでの18年であった。これが冤罪という地獄だ。法廷における民意の反映により、こうした不幸を生み出す可能性は少なくなるのではないか。アメリカの陪審制では、犯人100人中で、有罪にするのは95人すなわち5人が犯人であるにもかかわらず、無罪を言い渡すといわれている。反対に職業裁判官のみでは、105人に有罪を言い渡す。つまり、5人が罪がないのに有罪とされ、ここに冤罪が生まれる。この数字はやや大げさな気もするが、本質は変わらないだろう。犯人を5人娑婆に逃がすのか。無実の者を牢屋や最悪、死刑に追い込むのか。犯罪を犯した者に対して適切の処罰することが、法の正義であり社会の秩序の安定につながると思う。そのためにも、あえて法廷に乗り込み、まさにキナ臭さを感じて、冤罪を防止することも大事なのではないだろうか。私はこの菅家さんの逮捕時の映像を記憶している、社会の矛盾を顔に表して連行されていく姿を。