桜の花びらも風とともに散り行き、新緑の新葉が少しずつ大きくなり始めました。4日連続の夏日(最高気温が25度超の日)は、4月としては記録的です。
先日、奈良の国立博物館へ「鑑真和上展」を見に行ってきました。

去年の法隆寺展、正倉院展と、この奈良国立博物館に通い始め、今では古都奈良は、かなりお気に入りのスポットとなっている。
今回の鑑真和上展の目玉は、子供の頃から教科書で見てきた、あの有名な木像である。この像には単に古いというだけの歴史や考古学の視点ではなく、一人の男が命がけで、事を成した姿が彫られているようにみえるのだ。
大和朝廷は、日本古来の信仰とともに外国の宗教であった仏教を受け入れた。主な理由は国家の安寧を祈祷するためのものだったようだ。祈祷や行事を行うためには、僧侶が必要であった。聖武天皇は、社会不安を取り除こうと「国分寺建立の詔」を発し、国分寺には僧20名、国分尼寺には10名の尼僧を配するように命じたのである。しかし、在家の者が出家するには、授戒の儀式をせねばならず、日本には授戒する高僧もまた儀式に必要な10名の僧侶も手配できないでいた。そこで、遣唐使で、中国(唐)に要請し、そして、それに応えたのが大安寺の高僧、鑑真なのである。時に鑑真55歳の決断である。
世に5回の渡航失敗とあるが、実際に出帆したの2回の失敗で残りは内地で密告により断念させれれた。唐は、鑑真の出国を最後まで認めなかった。第10回の遣唐使の帰り便の第2船(副使船)に乗り込み、密出国したのである。(第1船は、沈没した)
6回目の渡航に成功した鑑真の入国の地は、都から遠く離れた、沖縄である。奄美大島、鹿児島、瀬戸内海経由で、難波津の四天王寺、いよいよ決意の日より12年の歳月を経て、奈良までやってきたのある。しかし66歳にして目的を達した鑑真の眼は、失明していた。日本に咲く桜の花々も、もはや見ることができなくなっていた。二度と帰国することができないとわかっていた彼は、所期の目的通りに、東大寺で、戒壇を設け授戒の儀に臨んでいる。そして終焉の地は、都の西側にある唐招提寺であった。

私は、館内にある、数多くの仏像や菩薩像の中で、この見慣れた鑑真像を実際に見るにつけ、宗教者の持つ静けさと、また反対にわが人生をかけた行動の達成感と勝利という動的な心理を感じるのである。また、その容貌からは安らかささえ感じる取ることができる。1250年前の木像というだけではない、この像に秘められた心が私の心を直撃してやまない。